追悼 梅棹忠夫さん 4

梅棹さんは日本語についてもおおくをかたっている。

わかりやすく正確な文章をかくため、

ということのほかに、

日本文明をうごかすためには

日本語はどうあるべきか、

ということについてかんがえるところに

梅棹さんの文章論・日本語論の特徴がある。

これからの情報化社会において、

膨大な情報をあつかうには、

日本語が機械にのらなければならない。

ワープロやパソコンどころか、

日本語がつかえるタイプライターさえなかった今から50年まえ、

このままでは地球時代ともいうべき

情報化社会から

日本文明がとりのこされてしまうという危機感を

梅棹さんはもっていた。


なぜ日本語が機械にのらなかったかというと、

日本語は漢字かなまじりの表記法がとられているからである。

和文タイプライターというものがあるにはあったが、

これはしかし清書用の「印刷機」であり、

楽にはやく「かく」ための道具ではない。

梅棹さんさんはローマ字で日本語をかいたり、

ひらかなやカタカナのタイプライターをつかったりして

なんとかして日本語を機械にのせようとしている。


日本語は、漢字とカタカナ、

そしてひらかながいりまじってあらわされる。

その複雑さは学習者をくるしめ、機械化をはばんできた。

漢字さえなければ日本語をまなぶことはずっと楽になる。

わたしたちが義務教育でならう「国語」の時間のおおくは

漢字の練習だったことを、

おおくのひとは記憶しているはずだ。

宿題のほとんどもまた漢字練習だった。

「国語」といいながらも、

論理的でわかりやすい文章をかくための訓練を

わたしたちはうけていないのだ。


そんなことはなくて、

日本人のほとんどは日本語をマスターしている、

という反論もあるかもしれない。

でも、むつかしい漢字をつかいながら、

なにをいっているのか全然わからない文章しかかけないひとが

どれだけおおいことだろう。

内容がとぼしいことを

漢字でごまかしているのではないか。

日本語をわかりやすくかくことは

日本人にとってもそれほど簡単ではないのだ。


そうはいっても、漢字をつかわずに、

日本語をローマ字で、

あるいはカタカナだけでかくことは、

おおくのひとにとって心理的な抵抗がつよすぎたそうだ。

梅棹さんは折衷案として、

音よみにしか漢字をつかわないという表記法を提案されている。

訓よみ漢字はなんとおりものよみ方ができてきりがないし、

活用がある言葉はどうおくりがなをふるか、

という問題がつねにつきまとう。

たとえば「あかるい」という言葉は、

「明い」とかいても

「明かるい」・「明るい」とかいてもまちがいではない。

どれかはまちがいかもしれないが、

どれをかいても意味がつうじてしまうのであれば、

きまりがないのとおなじことだ。

訓よみ漢字をつかわなければ、

おくりがなになやまされれることはない。


漢字は日本の文化だから、という意見をよく耳にする。

むつかしい漢字のよみかきをきそう「漢字検定」は

いまでもまだ人気がおとろえない。

しかし、文化はすべてうけつがなければならないわけではない。

江戸時代のように

筆と硯で習字をしていたのでは、

いまの時代とても仕事はできない。

漢字が障害になるならば、

漢字をたのしむのは趣味の時間だけにして、

仕事や研究でつかう日本語にはローマ字で、

というつかいわけが常識となるかもしれない。

なにを継承し発展させてつぎの時代にわたしていくのかについて、

わたしたちは責任をおっている。

日本語はどうあるべきで、

そのなかで漢字はどうあつかわれていくか。

わかりやすい表記のために、

わたしは梅棹さんのまねをして

できるだけ漢字をつかわないで文章をかくようになった。

(吉田 淳)