追悼 梅棹忠夫さん 3

『わたしの人生論』(講談社) 人生に目的はあるか


人口はこの40年で2倍にふえ70億になった。

このままでいくと、

食料だけでなく、水や酸素もたりなくなる。

温暖化はとまらず、森林はへりつづけ、

ゴミ処理は機能しなくなり、

地域間の貧困差はひろまるばかりだ。

人類はふえすぎたのだ。

人類がこのさきいきのびるには、

いったいどうしたらいいだろうか。


人類はこれまで技術の進歩によって

問題を解決しようとしてきた。

石炭のつぎは石油を、

そしてさらには原子力をエネルギーに。

医学は発達し、むかしのように

簡単には死ななくなった。

しかし発展はかならず影となる面をともなっている。

石油をエネルギーとしてつかえば二酸化炭素がふえるし、

プラスチックにすれば処理できないゴミとなる。

そうした科学の進歩そのものが

人類を破滅においこんでいるのではないかという

根源的な疑問がわいてくる。


けっきょくはなにもせんほうがいい、

というのが梅棹さんのかんがえ方だ。

「モーレツ人間で未来がどこまでもひらけるとおもうのは、

あまいですよ」という。


以前は猛烈にはたらくことがもとめられ、たたえられた。

しかし、ひとがうんとはたらくということは

その結果としてかならずなにかをうみだしてしまう。

がんばってはたらいて自動車をたくさんうれば、

それだけ地球の環境は破壊される。

そのひとは、そのひとなりの美意識や生きがいで

一生懸命はたらいたのかもしれないが、

おおきな目でみれば、

地球の寿命をちぢめたともいえる。

がんばってはたらいたことへの

責任をおわなくてはならなくなったのだ。


「いかにしてがんばって仕事をやるかという問題ではなくて、

いかして仕事をやらないですませるか」

「どうも進歩ではいかんのではないか。(中略)

生産しないことがじつはよいことなのかもしれない。

一所懸命はたらいて、なにかものをつくるということは、

わるいことかもしれない。

アクセルをふんで破滅へむかって突進するみたいなものではないか」


ながい人類の歴史のなかで

人類ができなかったことは

「創造しないこと」なのだそうだ。

人間のかんがえることなどたかがしれている。

へたに創造するより、

なにもしない「創造ばなれ」のほうを

梅棹さんは期待するという。


なんとかなる、というかんがえ方もある。

たとえば、ふえすぎた人口問題の解消のために

地球以外の星に移住する案をよくみみにする。

しかし、70億の人口のうち、

ほんの1/70にすぎない1億人を

宇宙におくりだすことをかんがえただけで、

それがどれだけ現実ばなれしたことかを梅棹さんは指摘する。

1億人がのるにはどれだけのロケットが必要だろう。

1000人がのりこんだとしても10万台!

それをつくるためにどれだけの資源が、

そしてそれが発射されるためにはどれだけのエネルギーが必要で、

そのためにどれだけ地球の環境が破壊されるかをかんがえると、

そう簡単な案ではないことがわかる。

問題がむつかしすぎるのだ。

けっきょくはなにもせんほうがマシ、ということになる。


虚無主義ではない。

エネルギーはあるのだから、

それを生産にまわさないよう

じょうずにほかでつかわなければならない。

ようは、いかに機嫌よく人生をつぶすかということが

大切な時代となったのだ。


そうしたことからいうと、

介護という仕事はものすごく現代的だ。

生きがいをもってどれだけはたらいても

なにもうみだす心配はない。

安心して仕事にうちこめる(うちこまないけど)。

わたしがいまの仕事をえらんだのも

「生産しないここちよさ」からかもしれない。

20代でこの本にであい、人生に目的はない、

無為にすごす生き方もある、

とはやばやとさとってしまったことは

わたしにとって決定的ともいえる

おおきなできごとだった。

(吉田 淳)