追悼 梅棹忠夫さん

7月3日に文化人類学者の梅棹忠夫さんがなくなられた。

直後の報道はあまりおおきなあつかいではなく、

わたしにとっては黙殺にかんじられたほどだ。

あれほどの知の巨人にたいしてなんと失礼なと

はらをたてる。

朝日新聞では8月下旬から不定期の連載がはじまり、

業績が紹介されている)


わたしにとっての梅棹さんは

あらゆる面での大先生であり、

人生論や日本語の表記法、また書類の整理法など、

さまざまなことをおしえてもらった(もちろん本から)。

梅棹さんなしに、どうやってほかのひとは

仕事をすすめ、生活をおくっているのか

不思議におもえてしまうぐらい

わたしのなかではおおきな存在だ。


『文明の生態史観』について紹介してみる。

これは、日本と西ヨーロッパの発展は

地理的・生態的な必然として平行にすすんだ、

というものである。

この論文が発表された1956年の日本は、

敗戦からまだ10年しかたっておらず、

日本人のおおくは自信をとりもどせずにいた。

そんなときに

明治維新後の日本の発展は西欧化ではなく、

両者は平行に進化した、といったのだからすごい。

簡単に紹介してみると、

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ユーラシア大陸をおもいっきり単純化して横長の長円にたとえる。

・その長円の左右の端に垂直線をひく。

 ちいさくくぎられた左右の端が第一地域であり、

 それぞれ西ヨーロッパと日本をあらわす。

 それ以外の地域を第二地域とよび、

 過去にさかえた4つの文明圏にわけることができる。

ユーラシア大陸の中央には東北から西南にかけて大乾燥地帯がはしり、

 そこからは遊牧民その他の暴力があわられ

 その周辺の文明にふかい打撃をあたえている。

(ご存知のように、万里の長城遊牧民をふせぐためのものだった)。


第二地域の歴史は破壊と征服の歴史であり、

いっときはりっぱな社会をつくることができても、

つねに乾燥地帯からの暴力にそなえなければならず、

成熟した社会をそだてる余裕をもつまでにいたらなかった。

ようやくその暴力をおさえることができるようになったときには、

こんどは第一地域からの侵略をうけることになる。

いっぽう、第一地域は辺境地帯である。

辺境だったからこそ乾燥地帯からの暴力は

ここまではたどりつかず、

国としての実力を蓄積することができた。


ふだんわたしたちは

日本とドイツ、あるいは日本とイギリスのちがいばかりを

きかされてきた気がする。

ちがいはたしかにある。

しかしそれは第二地域の国々とくらべると

いかにもちいさなものではなかったか。

第一地域にぞくする国は

教育の普及・封建制と革命の経験・帝国主義という、

にかよった社会体制構造と歴史をもつ。

反対に、第一地域の国と第二地域の国、

たとえば日本とインドをくらべてみると、

ひくい工業力や貧困さなど

社会のしくみが質的にことなっていることはあきらかだ。

(※注 50年以上むかしの状況である)


ユーラシア大陸の両はじという、

距離的にものすごくはなれた場所に、

よくもこのような同質の文明が発達したものだ。

そしてそれを地理的・生態的必然ととらえたところが

この学説の斬新さであり魅力である。

日本の発展は西欧化ではないという指摘に

わたしは自由をかんじ、

地理的・生態的に発展の法則をさぐる

スケールのおおきさにしびれた。

(吉田 淳)