オフサイドはなぜ反則か(中村敏雄・三省堂選書)

サッカーにはオフサイドというルールがあり、

攻撃側のプレーヤーはゴールラインとのあいだに

最低2人は相手のプレーヤーがいる位置で

ボールをうけなければならない。

ルールはルールなのだから、

そんなもんだとおもってプレーするしかないが、

ふつうにかんがえると、

たとえばバスケットしかしたことがないひとにとって、

このオフサイドというルールはなかなかわかりづらい。

オフサイドルールのために、

サッカーではバスケットのように完全なフリー状態で

ロングパスをうけることができない。

ラグビーはサッカーよりまだきびしく、

ご存知のように、

まえにむかってせめているのに

ボールはうしろへうしろへとまわしていく。


なんのためにこんないっけん不合理なルールがあるのか。

本書によると、これはひとり集団からはなれてロングパスをうけることは

ずるいとする価値観から生まれたのだそうだ。

もともとは、ゴールのちかくでボールをまちうけるのを

きんじるためのルールであり、

点をいれさせないためのもの、ということもいえる。


中世、あるいは16世紀になってもなお、

フットボールは儀式化された盛大な「祭り」として

年に1回おこなわれていた。

「マス・フットボール」・「ストリートフットボール

とよばれていたこのころのフットボールは、

町や村ぜんぶをつかって500人以上がいりみだれての、

大規模なもよおしだった。

競技の内容はというと、


「川の中を歩いていく戦法をとった。(中略)

誰かを女装させて、そのスモックかペチコートのなかに

ボールを隠して運んだりすることもあった」


というから、いまのサッカーとはかなりちがった姿ではあるものの、

これがサッカーの原形であることはまちがいない。


みんながたのしみにしているこの「祭り」は

どちらかが点をいれた時点で終了となる。

せっかくのお祭りが、

あまり簡単におわってほしくないという価値観が、

まちぶせをきんじるオフサイドというルールとなった。


「マス・フットボール」はもともと「祭り」であるために、

勝敗をきめることはそんなに重要なことではなかった。

サッカーはその精神をうけつぎ、

45分ハーフの90分間をたたかっても

ひきわけということがめずらしくない。

これは「ひきわけでもいい」とする価値観からのものであり、

かならず決着をつけなければならないアメリカ型のスポーツ、

野球やアメリカンフットボールとおおきくことなっている。

90分間はしりまわり、それで勝敗がつかないことがあってもいい、

という社交の精神だ。


とはいえ、サッカーのルールも

しだいに決着をつける方向にむかっている。

たとえばW杯の予選リーグではひきわけがあるのに、

決勝トーナメントでは延長戦が設定されており、

それでも点がはいらなければPK戦となる。

どうしても勝敗をきめたいという

価値観を重視したルールとかわってきている。

また、オフサイドルールもそれまでは

ゴールラインとのあいだに3人いなければならなかったのが、

1925年に現在の2人へ変更されている。

攻撃側に有利なルール変更である。


スポーツのルールはなんとなくきまったわけではなく、

その背景にはかならずそのルールを必要とした精神・価値観があることを

この本はおしえてくれた。

ルールは絶対のものではなく、かえることができる。

その変更が民主的な理由からなのか、

一部のスポンサーやつよいチームのためのものなのかを、

わたしたちはきびしい目で監視しなければならない。

(吉田 淳)