負け犬における比較文化論『儒教と負け犬』

酒井順子儒教と負け犬』(講談社)をよむ。

東京・ソウル・上海の三都の比較から、

東アジアにおける

『負け犬の遠吠え』のその後をしることができた。


酒井さんは、日本と韓国の急激な少子化と晩婚化、

つまりは「負け犬」の繁殖について、

もしかしたら儒教の影響が関係しているのではないか、

と仮説をたてる。

儒教の影響」といってもむつかしいはなしではない。

正確な知識はしらなくても、

だれもが漠然とかんじとっていること。

つまり、飲み会で女性がおしゃくをしなければならない雰囲気とか、

夫を家にのこして妻が外出しにくい関係性とかのことであり、

東アジアの三国では無意識のうちに

この思想がうえつけられ、

ひきつがれた結果の「負け犬」現象ではないか、

というおもいつきである。

(ちなみに「負け犬」のことを韓国では「老処女」、

中国では「余女」というのだから、なんだかすごい)


酒井さんはソウル・上海の

「負け犬」と「勝ち犬」をまねいた座談会をひらき、

彼女たちがどのようなそだちと意識のもとに

いまの地位にたっしたかをあきらかにする。

そして、三都の比較から、

経済的にも精神的にも

「男性にリードしてもらいたい」という要求を、

東京の「負け犬」がもっていることを指摘している。


「男性達はすぐ、『リードする』ということと

『好き放題する』ということを混同します。

そして女はそれをつい許容してしまうため、

『亭主関白の国』になったのでしょう。(中略)

 女性をリードできる能力を持つ男性など、

 もう日本にそういないということも、

 負け犬の不幸です。(中略)

 いたとしても既に結婚している」


また、いくつもの調査からかんじたこととして、

「老処女」・「余女」よりも

日本の「負け犬」には希望がないことを酒井さんはみぬくのでした

(ここらへん、酒井さん風)。


「日本の夫婦がもう少し幸せそうな姿を見せれば、

日本の出生率は上昇するのだと思います。

が、それは出生率をあげるための行為ではないのです。

今後の日本が

どんどん右肩上がりの経済成長を続けるわけではないことが見えている今、

『隣にいる人と仲良くする』的な

小さな幸福をきちんと拾っていかないと、

負け犬どころか全ての人の中から、希望という小さな玉が、

消えていってしまうのではないか」


酒井さんが気づかれたこの日本の問題点にはふかく共感させられる。

他者との比較において、

客観的に自分たちの姿を認識することができたのは

おおきな収穫となった。


それにしても、この本の表紙はすごい。

典型的な「負け犬」氏は、

ひとりでいるとき、きっとこんなふうにキリリと、

そして透明な目で世相をみているのだろう。


はなしがそれるが、

酒井さん本の特徴として、

その比喩のたくみさがあげられる。

「負け犬」シリーズではない別の本のなかで、

食品偽装事件後の「赤福」がとりあげられていた。


「『お久しぶりです、会いたかった・・・。

しかしもうこんなところまで出てきちゃって、

本当に大丈夫なの?』と、

まるで重病で入院していた人と

久しぶりに外で会うかのような感慨を、

私は抱いたのでした」


なんてほんとにうまい。

そういわれると、

たしかにそれこそがわたしたちの一般的な感想なのだ。


酒井さんのことばえらびはあんがい古風だ。

たとえばズボンは「パンツ」ではなくどうしてもズボンだし、

(女性の下着も

「パンティー」とか「ランジェリー」とかではなく、

絶対に「パンツ」)

キャビンアテンダント」ではなく「スチュワーデス」、

「スイーツ」ではなく「甘いもの」、

「振り込み詐欺」はあくまでも「オレオレ詐欺」なのだそうだ。

わたしのかんじ方とにたところがあり、

そのセンスに同感することがおおい。


酒井さんの本は、

現代の風俗をタイムリーに、そして、

きわどい話題もさりげなく下品すぎないよう紹介してくれる

(「パフューム」「サルコジ婚」「お通夜不倫」

「トロフィー・ハズバンド」「レギンス」等)。

世俗にうといわたしにとってたのしい情報源だ。

(吉田 淳)