脚をつくる

『ヨムマラソン』(吉田誠一・講談社)をよむ。

2年つづけて出場したベルリンマラソンを中心に、

レース中にかんがえること、

レースまでの準備期間にするべきこと、

そもそもなんではしりはじめたのか、など

はじめは断片的に、そしてしだいに細部にわたって

はしることの魅力がかたられる。

著者は日経新聞のサッカー担当の記者なので、

生活はすごく不規則なはずだけど、

とにかく時間をみつけて(あるいはむりやりつくって)、

1ヶ月に300キロはしりこんでいる。

はしることはそれだけすごくたのしいという、

初心者ならではのまっすぐな気もちがつたわってくる。

市民ランナーのよろこびと、

フルマラソンをはしる魅力を

これだけ的確につたえてくれた本はこれまでになかった。


おもしろいとおもった表現に

「脚をつくる」というのがある。

正確な引用ではないが、

「長距離をはしる脚は、

長距離をはしることによってしかつくれない」

のだそうだ。

ラソンでは一般的な概念のようで、

入門書にもおなじようなことがかいてある。

はしる練習は、

心肺機能をたかめることなのだとおもっていたけど、

ながい距離をはしることにたえられる脚をつくる、

という作業でもあることをはじめてしった。

10キロしかはしったことのない脚では

フルマラソンをはしりきることはできない。

最低でも30キロを体験させないと

必要な準備をつんだとはいえない。


「フルマラソン(42.195キロ)をはしるということは

20キロはしってもわからない。30キロでもだめだ。

42.195キロというその距離をはしることでしかわからない」

みたいなこともかいてある。

なんだか禅問答みたいだけど、

ランナーをめざすものにとって含蓄のあることばである。

また、マラソンには2つの忍耐が必要で、

ひとつはもちろんくるしさにたえるちから、

もうひとつは「とばしたい」という自分をおさえるちから、なのだそうだ。

脚はいろいろな不満や

あまいさそいの言葉を脳にうったえてくる。

ここでちょっとくらいペースをおとしても大丈夫だよ、とか

前半につくった貯金をきりくずして

後半はちょっと楽をしよう、などという

もっともらしい提案にどう抵抗するか。

脚と頭の対話、というより、

いやがるからだをどうコントロールするかという

こころのつよさがものをいいそうだ。

よんでいるうちにフルマラソンをはしりたくなった。


自分のことについていえば、

ゆっくりはしることはまえからやっている。

でも、ゆっくり30分はしったところで

レースにむけた練習には全然ならない。

『ヨムマラソン』をよんでから、

スピードを意識してはしるようになった。

まえはすごくゆっくりでしかはしれなかったけど、

このごろはなんとか

1キロ6分のペースで1時間はしれるようになった。

もっともこの程度では

ランナーとしてのレベルは「初心者」に位置づけられる。

次にめざすのは、

1キロを5分のペースで10キロはしれるようになること、

と入門書にはかいてある。

簡単そうだけど、いまのわたしにはそのちからはない。

時速12キロのスピードで10キロはしりつづけることは

わたしにとってイメージできないほどとおい世界だ。


でも、そうした目標にむけてはしることが大変かというと、

そうではなく、すごくおもしろい。

ラソンは、やったことが確実にはねかえってくる競技であり、

レースのためにどれだけ準備をつんだか、

だけがものをいうからだ。

わかいころ競技スポーツをやっていたという

経験や実績はまったく関係ない。

むかしの貯金でどうこうなるほどあまいものではない。

1ヶ月あたり100キロしか練習しなかったひとは

フルマラソンで4時間をきることはまず不可能であり、

たとえそれまでスポーツにとりくんだことのない

初心者ランナーであっても、

月に300キロのはしりこみをつづければ、

ほとんどのひとは4時間をきれる(らしい)。

あるレベルまで、

という限定つきではあるものの

「練習(努力)はうらぎらない」競技であり、

すごくシンプルに練習量が反映される。


単純な行為なのに、

奥がふかいというか、魅力的というか、

はしることはほんとうにたのしい。

これからすこしずつ準備をつんで、

海外のレースでマラソンデビューするのが

いまのわたしの目標だ。

およぐこともたのしいけど、

はしることもまた未知のよろこびの宝庫であり、

このたのしさに気づかせてくれた『ヨムマラソン』と吉田誠一氏に感謝する。

(吉田 淳)