たちどまるな、はしれ!

湯浅健二著『日本人はなぜシュートを打たないのか?』(アスキー新書)をよむ。

チャンスの場面になっても、なぜ自分できめようとしないで、

ひとにパスをだしてしまうのか。

つい責任を回避してしまう

そうした日本人の特性についてかかれた日本人論かとおもってよむと、

とくに目あたらしいことがかいてあるわけではない。

ながいあいだせまい国土・たかい人口密度の環境でくらすうちに

そういう国民性ができたのだからしょうがないとおもう。

この本はそうした日本人論としてではなく、サッカーとはどういうスポーツか、

についてかかれたものとしてよむとすごくおもしろい。


パスをうけた選手がずっとそのままボールをもっていては多彩な攻撃はできない。

どこにパスをだすか。だれもいないスペースにだ。

味方の選手はそこにボールがだされることをみこしてすでにスタートをきっている。

その選手がうごいたことでうまれるスペースに、べつの選手がはしりこむ。

そうやって3人4人と選手がどんどん攻撃に参加することで

有機的にむすびついたプレーがつくりだされる。

「選手が涌いてくる」とも形容されたジェフユナイテッド千葉の攻撃は

こうした徹底的にはしる姿勢が基本になっている。

99%むだになりそうでもはしるのは、すごくくるしいことだけど、はしる。

もちろんただはしるのではなく、「かんがえてはしる」。


湯浅さんの本にはほかにも

『ボールのないところで勝負は決まる』がある。

サッカーをみる目がやしなわれていないと、

ついボールのうごきばかりにとらわれがちだ。

ボールのないところでどういううごきがされているか、

それこそがサッカーでは大切だ、というのだ。名言ではないか。


目だたない汗かき役がじつは大切な存在で、

無駄走りをおこたってはゲームにならないサッカー。

シュートがきまっても、フォワードが「えらい」のではなく、

そこまでお膳だてできたチーム全体の成功であること。

どれだけがんばってはしりまわり、絶対的なチャンスをつくりだすことができても、

シュートがはずれることはあたりまえのこととしておこるし、

数センチの差でバーにきらわれたりもする。

運もまた必然のこととしてうけいれられなければ

サッカーはあまりにも偶然に左右されるスポーツである。

オシムさんは「サッカーは人生」とよくかたっている。

それは単にチームワークが大切、という次元の比喩ではない。

不条理な民族紛争に運命を翻弄されたオシムさんがこの言葉をくちにするとき、

それがどれだけふかい意味においての発言であるかがこの本をよむとわかる。


サッカーはそしてビジネスにもたとえることができる。

監督は選手たちに無駄走りをもとめるきびしい立場にある。

一時的に選手からにくまれることがあっても

自分のスタイルを毅然としておしとおす強さがもとめられる。

選手の顔いろをうかがっていてはいい仕事はできないし、

選手からすると、チーム内での信頼関係がなければ

「クリエイティブな無駄走り」はできない。


そういわれると、つい自分たちの職場についてかんがえてしまう。

おたがいにチームのために無駄走りをしているだろうか。

無駄走りをちゃんとやってるひとを評価しているだろうか。

ボールがないところでもしっかりプレイができているか。

いとわずに無駄走りができる信頼関係があるか。


たちどまってはならない。はしりつづけるのだ。

(吉田 淳)