『大草原の小さな家』シリーズをよむ

本のはなしばかりでもうしわけないけど、

今回は『大草原の小さな家』シリーズをよんだことについて。


県立図書館の子ども室でたまたま『大草原の小さな町』が目にとまった。

シリーズでいうと7冊目にあたり、ローラは15歳、

メアリーは盲学校(大学)へいく、という状況だ。

よみはじめるとおもしろくて、あとはずるずるシリーズ全9作を

いろんな出版社のいろんな訳でよみすすめることになる。

ふるい訳では(岩波書店)「父さん」ではなく「とうちゃん」

となっていて、なんだか地球防衛家のおじさんが頭にうかんできた。

はじめはかなり抵抗があったけど、

そのうち気にならなくなったのだから、

作品全体の質のたかさにたすけられたのだろう。


大草原の小さな家』シリーズは、どちらかといと(すくなくとも日本では)

原作よりもテレビドラマ(1976年アメリカ制作)のほうが

よくしられているとおもう。

わたしも中学生のころ、毎回たのしみにみていた。

マイケル=ランドン演じる「父さん」がすごくたのもしかったし、

なんでも自分たちで工夫してやりくりする

大草原でのくらしがすてきにうつったことをおぼえている。

そのころのわたしは自給自足の生活にあこがれていたのだ。

本のなかでも「父さん」はすごくたのもしい。

家なんかすぐにたててしまうし、

どんなに困難なときでもまえむきにかんがえて

家族が安心してくらせるようにささえていく。

バッタの群に収穫前の小麦を全部やられようが、

きびしくながい冬におそわれ、食料も燃料がつきかけようが、

あきらめずにあかるくふるまって家族をまもっていく。


この「父さん」は、しかしみかたをかえるととんでもないオヤジともいえる。

西部へのおもいが頭からはなれず、

まわりに家がたち、ひとがふえてくると、

すぐにみしらぬ土地へ旅だとうとするのだ。

シリーズのなかで5回ひっこしをくりかえし、

そのたびに幌馬車に家財道具を全部つんであたらしい土地へとむかう。

やっとその土地でのくらしになれ、生活がおちついてきたとおもったら

「ひとがいっぱいで息がつまりそうだ」みたいなことをいって

ひっこしをちらつかせ、「母さん」をあわてさせる。

ローラは完全なお父さんっ子で、

草原のさきへのおもいをおさえることができない。


開拓者精神というのは父さんやローラみたいなひとのことをいうのだ、

ということがこのシリーズをよんでよくわかった。

日本での「農民」のイメージとだいぶちがう。

先祖代々の土地をまもる、ということにはまったく関心がない。

このさきにみしらぬ土地がひろがっている、という状況になると

血がさわいでしょうがないのだ。

「先へ進めばいいことがある」という根っからの楽天的なかんがえかた。

アメリカ合衆国という国は、こういう精神で、

こういうひとたちによってつくられたのであり、

だからこそ、この原作はアメリカで根づよい人気をたもち、

これこそが自分たちの歴史だとひろく支持されているようだ。


ローラは18歳でアルマンゾという青年と結婚する。

彼女は、

「わたしは農民とは結婚したくない」とはじめことわっている。

畑での仕事や家畜の世話はつらいことがおおいし、

苦労して小麦をそだててもその値段をきめるのは

町でくらす商人だというのは公平ではない、とおもうからだ。

アルマンゾはとにかく3年間やってみようともちかけ、

ローラは結婚におうじることとなる。

しかし、その3年間はけして順調なものではなかった。

収穫まえの作物はきまって天候不順にやられるし、

生まれた長男も病気で死んでしまったりする。

なんだかんだで借金ばかりがふくらむアクシデントつづきの3年間だった。


「さて、二人の農業は成功だったといえるのだろうか?」


ローラが夫のアルマンゾにたずねると彼はこうこたえる。

「要は、自分がそれをどう見るかにかかっているんだよ」


シリーズの最後にかたられたこの言葉にわたしはふかく感動した。

なにがおこっても、結局はそれを自分がどうおもったか

こそが大切なのであり、それがすべてなのだ。

「すべてはこころのもちかた」、という精神論がわたしはきらいなのに、

アルマンゾのこの言葉がすんなりこころにはいるのは、

これが禁欲的ではなく、まえむきで楽天的な精神によるものだからだろう。

のこり時間がすくなくなり、これからの人生をどう生きるか、

という選択をせまられているいまのわたしにとって、

この言葉はとても新鮮で気もちがらくになるものだった。

資産運用や投資信託がかまびすしいいまの日本において、

「自分がそれをどう見るかにかかっているんだよ」

とすずしい顔をしていえるのは、

すごくかっこいいことではないだろうか。

(吉田 淳)