オシムさんのいない日々がすごくさみしい
11月16日にオシム監督が脳梗塞でたおれてから3週間がすぎた。
さいわい一命はとりとめ、意識をとりもどしつつある状態ときく。
でも、オシムさんが日本代表チームの指揮をとることはもうないのだ、ということがだんだんはっきりしてきた。
後任の監督に岡田氏がきまり、来年2月からはW杯の3次予選がはじまる。
サッカーカレンダーはとまってはくれない、となにかにかいてあった。ほんとうにそのとおりだ。
オシムさんを監督にむかえることができ、どれだけ日本は、
そしてわたしはしあわせであったかをいまおもいしらされている。
オシムさんのめざしたサッカーをひきつげるひとなどありはしない。
2010年のW杯南アフリカ大会で、日本代表が旋風をまきおこすことを、
つい1ヶ月まえまで当然のことと期待していたのに。
それをどれだけわたしはたのしみにしていたことか。
最善の状況はうしなわれた。それはもうしかたのないことなのだ。
だけど、それをうけいれるしかないということがこんなにさみしいことなのか。
ポッカリと胸にあながあいたような、という表現がふさわしい。
もうあの姿を競技場でみることができないということがさみしくてたまらない。とりかえのきかない、というのはまさにこういうことなのだ。
選手がオシムさんのめざすサッカーに共感し、だんだんと理解をふかめ、
それにむけて公平な競争がおこなわれていた状況がいかに日本のサッカーを活気づけていたか。
いまはもう、岡田新監督のもとで日本チームが順調に成熟するのをみまもるしかない。
そして、オシムさんの回復をこころからいのりたい。
代表監督という立場ではなくても、日本代表チームに目をくばってほしいとねがう。
オシムさんのこれまでの仕事に感謝し、これからもできるかぎりの助言をいただけたらとおもう。
オシムさんのめざした日本サッカーの完成をみたかったけど、
いまとなってはもうかなわないねがいだ。
1年半のあいだ、いい夢をみさせてもらったことに
お礼をいうべきだろう。
オシムさんの回復をこころからいのっている。