「よみきかせ」がおわってしまった
これまで夜ねるまえに、できるかぎり(といっても週に2回くらいだけど)むすこに本をよんできた。彼が4年生になってもひとりではねつかないので、枕もとで本をよんでからねる、というささやかな儀式がつづいていた。
でも、それも先月でおわった。最後の作品となったのはパトリシア=マクラクランの『のっぽのサラ』。よみながら、これが最後の本かなー、という気はしていた。この本をよみおえてすこしたつと、むすこはなんとなく本をよむことをもとめなくなった。「本をよむ?それともねる?」ときくと「どっちでもいい」という。「どっちでもいい」よみきかせなんてたのしくないので、さみしくおもいつつあかりをけした。『のっぽのサラ』はわたしがだいすきな作品なので、この本が最後になったのはさいわいなことだったかもしれない。あんがい、わたしが「よみきかせ」がすきなことをおもって、むすこはなんとかこれまでつきあってくれていただけなのかも。
ふりかえってみると、これまでにずいぶんたくさんの本をよんできた。ちいさいころは、わたしとしては評価したくないような絵本でも、むすこが気にいったものは延々とくりかえしよまされたし、小学校にはいってからはわたしのすきな作家、ロバート=ウェストールやシンシア=ライラントなどをそれとなくとりまぜてむすこの反応をたのしんできた。『ツバメ号とアマゾン号』はちょっとむつかしかったみたいだし、カニグズバーグの『クローディアの秘密』はすごくのめりこんできいてくれた。それもこれも、もうすぐなつかしいおもいでになりそうだ。
クリスマスプレゼントにしても、「こんどはなにくれる?、これまでとうちゃんたちがサンタさんになってくれてたみたいだけど」と、単刀直入にたずねられてしまった。保育園のころ、とにかく親の手づくりのものを、ということで、いろいろ頭をなやましてきたのも、もう「いまはむかし」だ。
10歳は、ひとつの完成された年齢ということをきいたことがある。もう子どもではなく、ひとりの人間として人格形成のひとつのたかみにたっする年齢だという。その10歳をもうすぐむかえるむすこは、わたしのほうがたのしんできた「よみきかせ」をもう必要としない時期をむかえたようだ。これからはよみたい本を自分でかってによんでいくのだろう。まだまだ彼によんでほしかった本はたくさんある。でも、それを強制することはもちろんできない。もし、よむ習慣がつかなかったのなら、それはそれでしょうがないこととうけいれよう。
親としてのひとつのふしめをむかえたようで、かなりさみしさをかんじた「よみきかせ」の最後だった。
吉田 淳