ピピがいっしょにいてくれたら

歯がいたくなった。はじめはつかれからくる症状かとおもい、湿布をはったりしたけどなかなかなおらない。だんだんいたみがまして、やがて夜もねむれなくなった。


その日は夜中3時にいたみで目をさます。配偶者とむすこはふかくねいっていて、自分だけがいたみにうなされてねむれない。くるしまぎれにバファリンをのんでいたみをごまかす。いたみというのはいやなもので、気がよわくなってろくなことをかんがえない。死ぬときに、もしもこんなにいたかったらいやだな、とおもう。


そんなとき、かいネコのピピが枕元にきてくれた。ピピをだきよせ、あたたかくてやわらかいからだに顔をうずめる。なんてすてきなピピ!自分といっしょにいてくれる存在が、いたみにくるしむとき、どれだけありがたいか身にしみた。

このごろ「自宅で死にたい」という希望をよくきくのも、したしい人にそばについていてほしい、ということがおおきな理由なのだろう。歯のいたみ程度でも深刻ぶって「いまわのきわ」におもいをめぐらせるわたしは、ピピがいっしょにいてくれるなら死ぬのもこわくない、とおもった。


次の日に病院へゆき、歯のいたみは親知らず歯が原因といわれる。化膿どめといたみどめの薬をだされる。その晩からゆっくりねむれるようになり、いまわのきわについての考察はあっけなくおあずけとなった。

とはいえ死はいつか確実にわたしにおとずれる。わたしの臨終の祭に、だれか愛するものがそばにいてくれるだろうか。やすらかな死をねがうわたしは、最新の医療設備と看護スタッフにかこまれるより、家族やピピがいっしょにいてくれることをはるかにのぞんでいる。

(吉田 淳)