待つこと

「してあげる支援ではなく、できるようになる支援を」と先輩職員から教わった。

最近そんな場面によくであうようになった。


まだまだ試験的に取り組んでいる段階だが、利用者の自発を待つ課題に取り組んでいる。同じ課題でも、それぞれの利用者はそれぞれの反応をしめされる。

それがなんともいとおしくみえてきた。


その方が対象物に手が伸びるのを、二人の職員でじっと見守る。

「ここであなたがどううごいたらよいか」について会話・指さしなどによるうながしは一切ない。


自発的に手が伸びたときにだけ、ひとりの職員が的確にとるべき行動を教える。

もうひとりは、対象物を渡して、できたことをほめる。


そうやって何回もやっていくうちに、自発的に手を伸ばすことがいいことだとわかる。自発的にしたいことをするということは、いいことだと伝えるのが課題の大きな目的だ。


そのあいだを待っているというのはけっこうしんどいものだった。

そう感じてしまうのは、日頃からついつい言葉によるヒントが早すぎたり、多すぎるからだと感じた。

「あなたのために」「困らないように」ということが優先し、先回りしすぎているからだ。自発を待つあいだそんなことを考えた。


手を伸ばすのを待っていると、両手をかさねて「ちょうだい」としてくる方や、どうしてよいかわからずにしばらく困っている人もいる。中には一瞬手を伸ばしても「もらえない」のではと思ったのか、手をひっこめた人もいた。


いつの間にか「受身な人」にしてしまったのは私なのかもしれない。

この課題をやっていると「受身な人」というより、「受身にさせてしまった人」とかんじてしまう。

でもやっていくうちに手を伸ばし、自分がとりたい行動をとることができる。


よく「出来たことをほめましょうね」というけれど、

それも「ほら、やらないと」「やってください」といわれてやったことを

「すごいね」「できたね」といくらほめても意味はあんまりないのかもしれない。

自分でできたと実感するのは、自分で選択して手を伸ばし、やりとげた時。


自発的な動きをとりつづけ、それをほめていくことは、何よりもその方の自尊心をたかめる。

そうしていけば自分らしく生きていくことができることに繋がるのではないか、そう感じた。


ある程度の用意はあるにせよ(楽しい場所であるための準備)

何もしないで、じっと見守り、寄り添うことが最終的にはいい支援なのだろうと感じるようになった。川上