利用者Aさんがいまひとつ元気がない。先週に風邪をひいて完全になおりきっていなかった。疲れがたまっている印象だった。
今日の生活介護は、はつらつ体育館で運動の日。
Aさんは自ら午前中の体育館にいくスケジュールボードから、自分の顔写真のついたカードをはずし、「休みたい=運動ができない」ことを訴えていた。
また、午後からもいつも取り組んでいる作業班からは外れ、ゆっくりできることを望むようにカードも別の班に移動している。
Aさんがそこまできちんと言える(言動と態度)ことがすばらしいことなので、尊重したい。おそらく本当にしんどいのだ。
でも「休む」と言っても、みんなが体育館にいくので、こだまでひとりで静養するわけにはいかない。
私から、「休むのはOK」、「だけどこだまに誰もいなくなる」、「体育館にいって、ベンチで休む」をくぎって伝えた。
しばらくは、「休める」「ゆっくりできる」ことがわかり、さっきまでより元気になったのだが、出かける頃になって、車に乗ろうとされない。
どうやら、「休めること」は理解されたようだが、「どこで」が充分伝わっていない、あるいは気分が乗らないから、次の場面に移行するのもなかなか踏ん切りがつかないといった感じだった。
あらためて、先ほどと同じように、彼にどこにいくのか、車にのることなどを伝えた。でもやっぱり、次には移れない。
さてどうしようかと思っていたとき、ある職員が、今度は私に変わり、
「川上さん、紅茶(ティーバッグ)とってもらっていいですか?」といってきた。
「おいおいまだ、お茶でも飲んでゆっくりするの?車で他のみんなはまってるのに・・・」と心の中では思いながらも、しかし私ができることはやったので、紅茶を渡し、彼女がどうかかわるかを見守った。
彼女は「飲んだら行こう」という気だとしばらくして感じた。
だから遠くに離れ、彼女がどう接するかをみさせてもらった。
Aさんの体調を気遣い、紅茶を差し出し、いくつかの声かけをしていた。
しばらくしてAさんがカップの紅茶をのみほした後、ちょうどよいタイミングでぱんとかるく手をたたき、
「よし!じゃあいこうか」と伝えると、切り替わってAさんが動き始めた。もうその後はすんなり車にいくことができた。
目からうろこがおちた。
その職員は、日頃からAさんと関わっている職員だ。
Aさんがこういった表現をするときを何度か見ていたのかもしれない。
きっちりかかわりのコツをつかんでいて、すんなりと移行してもらうことがでいている。
無理に説得するのではない。よりそって、ねぎらい、そして安堵されたところをもって的確に次を示す。
そんな職員がいて、たのもしいと感じた。
ここ最近、職員にお願いしていたのは、
「チームで支援すること」
「職員がそれぞれ役割をもって、利用者一人ひとりに関わること」だった。事あるたびにそのことを伝えていた。
別に目配せや口あわせをするわけでもなく、私に足りない部分を彼女は補って、役割を全うしてくれた。そしてうまくいった。
ひょっとしたら、これが正解だったかはわからないし、他にも手段はあったかもしれないが、結果的にAさんは無理をすることなく一日をすごすことができた。
こういう瞬間をみると、たまらなく嬉しくなる。
そしてそんな雰囲気はすぐに、その場にいる他の職員にも伝わるものだ。
そんな彼女に呼応するかのように、他の職員の動きもよくなる。
就労Bでも、俄然やる気になった職員達が、これからの計画を練っている。
生活介護でも、楽しい企画を練り上げようとしている。
今日はなんだか仕事が楽しい。
そう感じさせてくれた同僚職員に感謝する一日だった。
川上