太陽のせい

さむい日がつづく。

あいかわらず野宿のことが頭からはなれない。

こんなさむさのなか、

達人たちは外でどう一夜をあかすのだろう。

極地用の下着をつけ、

冬用のぶあつい寝袋にもぐりこめば、

それなりに快適にすごせるかもしれない。

でも、それでは「ちょっと自由になる」

という野宿の精神からはずれてしまう。

ある程度そこらへんのものですませる

計画性のなさとずぶとい神経を大切にしたい。

やすものの服をもってるだけきこみ、

お風呂なり鍋なりであたためたからだのぬくもりを

のがさないうちに寝袋にくるまるぐらいにとどめたい。


かとうちあきさんは、

『野宿入門』と『野宿野郎』のなかで、


「運悪くなにか危ない目にあったとしても、

わたしには責任はとれません」


と、ことわったうえで、


「とはいえ、自己責任という言葉は嫌いです。

そんなときは、どうか、なんでもかんでも、

太陽のせいにしてください」


ときめている。


たしかに「自己責任」なんていいたくないし、

かといって「手ばなしでおすすめ」というほど

野宿はおてがるなものでもない。

わたしはかとうさんのこの正直で無責任な距離感がすきだ。

「太陽のせい」は

カミュの『異邦人』にでてくる有名な言葉だ。

「わたしのせいではない」とともに

いかにもムルソーらしい言葉として

印象にのこる。

かとうさんの意図はあきらかにされていないけれど、

なんだか含蓄のふかい言葉ではないか。

さむい冬の野宿で危険な目にあっても、

「なんでもかんでも、太陽のせい」にする

いーかげん、かつ、自由な精神でたのしみたい。

そうでなければなんのための野宿なのか。


わたしがまだわかかったころ、

ロンドンのビクトリア・ステーションで

「ステビー」(ステーションビバークの略だそうです)

をしたことがある(消極的野宿)。

夜おそくこの駅につき、

いまさらホテルさがしはできない時刻なので、

ほかのおおくの旅行者がしてるように

わたしも自分用の寝床をこしらえて一夜をあかすことにした。

インドでかった1畳ほどのゴザをしき、

そのうえにパキスタン航空からおかりした毛布をしく。

ザックをまくらにからだをよこたえ、

もちあるいていたうすいシーツをはおった。

たったこれだけの「装備」にすぎないのに、

このときのわたしは

ものすごく充実したベッドメーキングを実感していた。

なにせまわりのひとたちは、

つめたい床に直接からだをなげだしているだけなのだ。

ひとの優越感なんて、

ほんとうに相対的でしかないことがすごくおかしかった。

おそらく駅にいるほとんどがビンボーな旅行者で、

トホホの気分はあっても

しょんぼり感はない。

もしかしたらこれも「太陽のせい」なのかもしれない。

(吉田 淳)