『幻のサッカー王国』(宇都宮徹壱・勁草書房)

1994年ワールドカップアメリカ大会決勝。

ブラジル対ユーゴの試合はPK戦までもつれた。

ユーゴ5人目のキッカー、ドラガン=ストイコビッチ

(現名古屋グランパス監督)はみごとゴールをきめ、

ユーゴを初優勝にみちびく。


もちろんこれはフィクションである。

実際にブラジルと決勝をあらそったのはイタリアであり、

ユーゴはこの大会の予選にさえ参加していない(みとめられなかった)。

しかし、もしユーゴが出場していたら、

ブラジルと決勝をあらそうだけのちからをもったチームでありえたはずだった。

もちろん歴史に「もし」はありえない。

ありえないけれど、当時のユーゴの実力を客観的に評価すれば、

まさにドリームチームであり(代表監督はもちろんオシム氏)、

予選にさえ参加できなかったのは

おおくのサッカーファンにとって、

非情に残念なことだった。


ご存知のとおり

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は崩壊し、

「友愛と団結」の精神でむすばれていた諸民族は、

突如血で血を洗う戦闘を繰り返し、多くの非戦闘員が

民族浄化」の犠牲となった。ユーゴ内戦である。

「新ユーゴ」は「内戦を引き起こした加害者」として

国際的な非難と制裁をうけ、

2年半もの間あらゆる国際大会からしめだされた。


この本の著者、宇都宮さんは、

ずっとユーゴスラヴィアのことが気になっていたという。

「なぜユーゴスラヴィアの『友愛と団結』の精神が、

89年に起こった共産主義の崩壊とともに

木端みじんに砕け散ってしまったのか。

なぜ昨日までの隣人が、突然憎しみ合い、

殺し合うことになったのか。

私にはどうしても理解できなかったのである」


まだ32歳の青年だった宇都宮さんは

「運命に導かれる」ように

それまでつとめていた会社をやめ、

ユーゴスラヴィアへむかう。

なぜユーゴスラヴィアなのか、

ほんとうのところよくわからなかったそうだ。

「とにかく私は、どうしても『そこ』に行かなければならなかった」。

この、若者だけがもつ猛々しい青春のエネルギーが

この本のもうひとつの主題である。

だれにもとめることができない、

若者だけがとらわれてしまう強烈な衝動。

宇都宮さんにとってそれはユーゴであり、

この不安な旅のわずかな希望のよりどころは

サッカーと写真だった。


この本は宇都宮さんのデビュー作であり、

サッカーをとおしてその国の文化をとらえるスタイルは

このころからすでに意識され、

ひとつの魅力的な手法となっている。

ユーゴのひとたちはなにをかんがえ、どんな生活をしているのか。

宇都宮さんはサッカーをつうじてそれらを生き生きと表現し、

読者に紹介してくれた。


ユーゴスラヴィア関係の本というと、

これまで木村元彦さんのものを数冊よんできた。

これらの本は、

サッカーについてもふれられてはいるものの、

表現したいもののおおくは内戦の実態であり、

なぜこんなことになってしまったのか、

そして内戦によってどれだけ悲惨な出来事がおきているか、

についてポイントがおかれている。

たしかにそれはそれで興味ぶかくよむことができるけれど、

わたしはもうすこしユーゴのサッカーに

比重をおいたものがよみたくなっていた。

宇都宮さんのこの本は、

こんな本があったら、という

わたしの欲求をタイムリーにかなえてくれる

ねがってもないものであり、

のこりのページを気にしつつのたのしい読書となった。

(吉田 淳)