普通の家族がいちばん怖い
「普通の家族がいちばん怖い」(岩村暢子・新潮社)
ー徹底調査! 破壊する日本の食卓ー
ほんとうにこわい本だった。
この本は、クリスマスとお正月の食卓をとおして日本の家庭の現状を分析している。
そこで紹介されている例をいくつかあげると、
○1/3の家庭で元旦におせちらしいものをたべていない。
○元旦に「うどん(カップ麺)・パン・あんまん・おにぎり」を
それぞれがすきな時間にかってにたべる。
○クリスマスには、いかにもクリスマスらしくみえる
フライドチキン・ポテトフライ・ピザなどをかってくる。
自分ではつくらない。かざりつけをするだけ。
○中高生の47.2%がいまだにクリスマスプレゼントをもらっている。
「『夢』のない子って怖い」のだそうだ。
○ケーキも子どもの数だけ用意して、
それぞれがバラバラにすきなケーキをたべる。
○お正月には自分たちもお年玉をもらう40代の親たち。
○子ども中心、自分中心で、子どもをしかれない親。
いっけんふつうにみえる家族が、
家のなかでどんな生活をおくっているかを具体的にみていくと、
この本のようにおそろしい実態がみえてきそうだ。
家族全員でおしゃべりをたのしみながら食事をとるという風景が、
いまどれだけの家でみられるだろう。
朝みそ汁をのまない家。
それぞれが自分のすきなものを勝手にたべる朝食と夕食。
以前から、「個食」そして「孤食」が問題視されてきたのはしっていた。
でも、まさかこう徹底的に日本の食卓が破壊されていたとは。
このごろ食品会社の不祥事がとりざたされることがおおく、
被害者意識をもった消費者が「道徳的にゆるせない」
みたいなことをいうのを耳にする。
なにをいまさら、といわざるをえない。
食品会社をやり玉にあげ、えらそうなことをいうまでもなく、
日本の食文化はそのまえからちゃんと崩壊していたのだ。
食品会社を声だかに糾弾するひとたちのどれだけが、
まともな食生活をおくっているだろう。
それとこれとは、はなしがべつ、
とはわたしにはおもえない。
わたしだってえらそうなことはいえないことに気づく。
仕事を理由にほとんど家族といっしょに夕食をとることはなく、
とくにたのしい会話に気をくばっているわけでもない。
せめて朝ごはんぐらいは家族そろって、と妙にこだわっているけど、
それがはたしてどれだけ意味のあることだろう。
このまえの息子の誕生日には、数種類のショートケーキをかってきて、
4人の家族がそれぞれすきなものをえらんだ。
まさにこの本にかいてあるとおりのことをしていたとは。
みんなが自分のすきなことをする、ということをつきつめてきたら、
こんな恐ろしい社会ができあがってしまった。
すきな時間にすきなものをたべる、
という自由は快適だったかもしれないけど、
いい面ばかりではなかったのだ。
少子化問題もおそらく根っこはおなじだろう。
日本の食文化は崩壊しつつある。
では、わたしたちが理想とかんがえる家族、
そして食卓風景のモデルはどこらへんからきてるだろう。
おそらく江戸時代の武家あたりではないだろうか。
なんとなく日本古来の文化とおもっていたもののなかには、
その起源をたどっていくと、あんがいその歴史はあさいものがおおい。
われわれの理想とする家庭は、ながい日本の歴史からみると、
ほんのすこしだけの現象にすぎなかったかもしれないのだ。
べつの民族を例にあげると、
狩猟中心の生活をおくっていたときのイヌイットは、
お腹がすいたときにそれぞれが肉おき場から
骨つきの肉をもってきてたべるのが普通だったそうだ。
もともと家族そろっての食事という文化をもたない民族はすくなくない。
ひらきなおったいい方をすると、
日本のひとつの生活スタイルが崩壊したからといって、
日本文明がくずれおちるわけではない。
サラリーマンの就業形態や外食産業の発達が
いまのような社会を形づくったのであり、
それはそれでひとつの文化とみとめるしかないだろう。
日本人全員がおせちをまえにお正月をいわうやり方はほろびそうだ。
こんどはそれにかわってちがうスタイルが主流になる、
というはなしにすぎない。
わかったようなことをかいたけれど、
でも、お正月におせちをたべず、
日々の食事もひとりひとりがかってにたべるスタイルを、
わたしは肯定したくない。
いろいろな価値観があることはみとめつつも、
できれば自分の所属する共同体では
こんな個人主義にふりまわされない
がんこさをもっていてほしいとおもう。
こんどのお正月はきっちりむかえてみよう。
(吉田 淳)