ナイフの誕生日プレゼント

むすこの11歳の誕生日にナイフをおくる。

これまでは、ずっと両親からというかたちで

毎年ひとつのプレゼントだった。

今年は個人的にもおくろうか、という気になり

2000円の図書券を準備する。


誕生日がちかづくとむすこは

プレゼントのことを気にしだし、

たびたびなにをくれるのかをきいてくる。

ケチでビンボーな父ちゃんからのプレゼントを

すごくたのしみにしてるようなので、

実用的ではあるけどこころのときめきはなさそうな図書券では

なんだかもうしわけないような気がしてきた。

で、菊信でナイフをさがしたのだ。


誕生日プレゼントに、とお店のおじさんにはなすと

このごろナイフのプレゼントはめずらしくなってます、といわれた。

あぶないし、犯罪とむすびついてイメージがわるくなっているみたいだ。

じっさい、ナイフなんかあったってつかうことはまずない。

すごくふるいイメージでもうしわけないけど、

キャンプのときにナイフでハムをあつくきりとり、

「ワンパクでもいい」なんてつぶやくおとーさんにはなりたくないし。

父からむすこへナイフをおくる、というのは

すでに形骸化したイメージでしかないのだろう。

わたしとしては、刃物のこわさをしるためにも

子どものころからすこしはなれていたほうがいいとおもっている。

そうおおきくなく、でもしっかりしたナイフがあったのでそれにきめる。


夕ごはんのときに「おめでとう」をいってナイフをむすこにわたした。

おもったよりもずっとよろこんでくれ(演技ではないとおもう)、

さっそく刃をひらいてみる。

いかにもよくきれそうで、じっさいよくきれた。

刃をおってしまうときに、

かるくあたっただけなのに指がきれて血がにじんできた。

(さっそく目的をはたせた)。

この、刃をしまうときにすこし力が必要で、

むすこはまだひとりでできない。

ちょっとむつかしいくらいがちょうどいいような気がするので、

「そのうちできるようになるから」

なんてもっともらしくなぐさめる。

このように、ささやかな儀式としての誕生日が無事におわった。


無事に11歳の誕生日をすませたむすこは、

このあいだ「おとーがときどきわすれるカタカナは?」

ときいてきた。なんのことかわからなかったので確認すると、

どうもむすこには、ときどきかけなくなるカタカナがあるらしい。

とくに「ヨ」はどっちむきだったかすぐわすれてしまうようだ。

11歳でそんなことありなのか、とちょっとおどろき、

「小学5年生って、みんなそうなの?」ときくと、

「おれだけだから安心しろ!」といわれた。

安心・・・できるのかな。

(吉田 淳)