文章をつくる

人に自分が見聞きしたできごとの様子や、

そのときの気持ちなどを、できるだけ正確に伝えようとするが、

なかなかうまくいかないものであると最近よく思う。


職員会の報告で、ある事例について話をした。

翌日になって職員会議事録に目を通すと、事実とは違う記述がしてあった。

すぐに、数名の職員に聞いたのだが、私の話した事を誤解して受けとめていた人も数人、

そうでなく正しく受けとめてくれた人もいた。


話の中身の問題で、主語や固有名詞を意図的にぼやかして話していたことが災いしたのだと思った。

たしかに私の話し方ではどちらにとらえられてもおかしくなかったので、

きちんとした形で修正をかけ、正式なケース記録としてみなさんにおみせすることになる。


それ以降、なにか記録を取る時に、相手に誤解してとらえられないか今まで以上に気にするようにした。

言葉の中に想いがたくさんのっかると、とっても重たい文章になってしまうし、

だからといって抽象的になると、想いが伝わらなかったり、

結局何がいいたいのかわからないこともあると思うこともあった。



つい先日、私的な事で長めの文書をつくる機会があった。

とりあえず出来事の記述をはじめ、思いついたことをひたすら書き、

しばらくして構成を考え、段落を入れ替えていった。

また、相手に失礼のないよう、含みのあるような表現は避けつつも

こちらの訴えや要求だけにならないよう配慮して、

なにが問題で、どうしていくのがよいのかという結論までがまとまっていった。


そしてその文書をもち、相手に話す事になった。

話しながら、その文書に書いてあることを説明し、

文字ではあらわせなかったこと、その場で思ったことは、

口頭で伝えるようにした。

相手は熱心に聞いてくださり、私の想いを少しでも受けとめてくれたのか、

またお話する機会をつくりますよといってくださった。


おそらく、文書をつくっていなかったら、すべては話きれなかったであろうし、

短時間で想いは十分伝わらなかったかもしれない。

あるいはものすごく感情的になっていたかもしれない。

時間はかけた分、その効力があったのだと思う。

とても冷静におだやかに話すことができたのだ。


だいたいに、私のつくる文章は長い。

簡略化させた上で相手にきっちり気持ちを伝える文章をかける人がうらやましい。

いや、ある程度、相手がこの人はなんでこんなことを書くのだろうと

思わせる事のできる「あそび」があるほうがいいのか?

思いは思いとして、長くなろうがいいのか?

どっちなんだと悩むとこではあるが、

その場にあった、もっと読みやすい伝わりやすい文章がかけるようになりたい。


とはいえ、結局このブログも長々と書いてしまったのでした。

川上