相手をほめるということ

浜田でおこなわれた「発達障害支援フォーラム2008」で

田中康雄さんのおはなしをきくことができた。

わらいをとることがうまく、たのしんできいているうちに、

「このひとは本物だ」としびれてしまった。

発達障害の子をもつ保護者がどんなおもいでいるか、

子どもたちがなにに困っているかについて

臨床での経験からはなされる。

そして、子どもたちの「困り感」に適切に対応するために、

おおくのひと・関係機関をまきこんでいく実例をしめされた。


興味ぶかいはなしに、

「とにかくほめる」というのがある。

たとえば、ADHDの子への対応がうまくいかず、

つかれきってしまった先生にたいして

「よくこれまでやってこられましたねー」

とまず先生をほめる。

もちろん子ども本人もほめるし、校長先生もほめる。

保護者にもほめることからかかわりをはじめていく。

ひとつの技術としてそうするのではなく、

本心から「えらいなー」とおもいながら

田中さんはそうやってほめているのだ。

現場の先生方が、どれだけたいへんな状況で仕事をされているか。

その先生をささえるまわりの先生たちも、

どれだけギリギリの条件のもとで協力しているのか。

子どもたちへの保護者のおもいはどれだけふかいか。

相手へのふかい理解と共感があるから、

田中さんの言葉は相手につたわっていく。


「関係者であつまったときでも、

まずお互いの仕事をみとめあい、

ほめることからはじめてください。

言葉にはそれだけのちからがあります」

と田中さんははなされた。


そうやってほめちぎるのは、

きっと、そうでもしないとひとはうごかない、

という田中さんの経験がそうさせているのだ。

前例がないことをやろうとするとき、

人や組織をうごかすのがどれだけたいへんなことか。

あたりまえにひらかれるケア会議でも、

正論ばかりの理屈ではひとはうごかない。

相手に共感し、みとめあう姿勢がなければ

議論はすすまず、当事者の困難さはぜんぜんへらない。

学校にはいりこんだりという、

おおくの関係者の協力が必要なときには、

ただしいかもしれないけど批判的な視点をもちこむより、

まず相手がこれまでにしてきた苦労を

こころからみとめることからはじめなければ

どうにもならないのだろう。


わたしの例でいうと、

関係者であつまったときには

「いつもお世話になります」

儀礼的に挨拶はかわすけれど、

本心からの発言ではけしてない。

「うちがこれだけやってるんだから、

あんたのとこももうちょっとしっかりやってよ」、

みたいな意識がぬけず、

相手がわのうごきにどうしても懐疑的だ。

職場でさえ、仕事なかまにたいして露骨な批判はしないまでも、

相手の仕事をじゅうぶんにみとめてのあたたかさはない。

お互いギリギリのところでやっているのだから、

というふかい理解がこちらにあれば、

相手のでかたももうすこしかわってくるだろう。


障害者をささえるためのネットワークというと、

きれいにととのえられたシステムをおもいえがくけど、

けっきょくは人と人との関係でしかない。

相手をみとめる姿勢がなければひとはうごかない。

「地域づくり」についてもおなじことがいえて、

こうやってすすめれば、かならず実現できますよ、

という勝利の方程式みたいなものはない。

それぞれの地域がそれぞれの地域なりのやり方で、

そこでしかない資源や人をつなぎあわせていくしかない、

ということがだんだんわかってきた。

そして、それをすすめていくときに大切なのは

相手の仕事をみとめる姿勢である。

これまでこだまが苦手としてきたスタイルだけど、

「地域づくり」をほんとうにやろうとするならば、

おおくの関係者と協調していくことがどうしても必要になってくる。

わたしはこころから相手の仕事をほめたたえられるだろうか。

(吉田 淳)