「可哀想」は時に人を傷つける
足をけがした6歳の息子が「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」と言った。片足を引きずりながらゆっくりと歩く息子に付き添っていたら、通りすがりのご婦人たちから「あんな足で歩かせて可哀想に」という会話が聞こえてきた。
息子に妹ができ、おむつを買いに行った。「僕が持つよ。お兄ちゃんだから」と頼もしいことを言ってくれた。任せたら「あんな小さな子どもに荷物を持たせて。可哀想に」と他人から非難された。
息子の頑張りが「可哀想に」という一言で全否定された気がした。
「可哀想に」という人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。そのことを知ってほしい。
ネット上で話題になり反響が続いている新聞記事をそのまま抜粋させてもらった。
私たちは、おうおうにして、不憫な思いをしているのだろうとその言葉を放つ。でも本当にそうなのかと考えさせられる記事だった。
言葉の受け取り手はまったく違う気持ちをしている時だってある。
私は、相模原の事件についても同様に思う。
施設で、障がいの重い利用者をみて、容疑者は同じように感じたのではないか。
可哀想に感じ、不憫に感じるだけ。
本当にその人が、生きている証をみつけられなかったのではないか。
どこに視点をおくのか。だれも教えてくれなかったのではないか。
話は少しそれるが、息子の読書感想文の完成まで、見聞を深めるためにと、お盆休みに広島にいった。
そのあと「シン・ゴジラ」を観にいった。
過去のさまざまな出来事を見つめ、今私たちにできることをしなくてはと感じた休暇になった。
今の社会のあり方や価値観がかわってきたなあと感じる。
自分のしょうもない固定観念をできるかぎりとっぱらいたい。
もうすぐサライが聴こえてくる時間帯。
裏番組のバリバラの方がとっても気になったが、帰宅中で見れず残念でしかたがない。
なにかと話題の「ヨシノリ先生」ご本人がドラマの放映前のドキュメンタリーで「自分がテレビにとりあげられない世の中になってほしい」と言っていた。
サライは聞かなくても、私はこの言葉だけでもう満たされた。
川上