うまいと感じられる日
週末に父親が牡蠣をもらってきた。
幼少期から牡蠣が苦手でずっと敬遠してきた。
土手鍋など家でしようものなら、私だけに鶏肉が用意されていたことをいつも思い出す。
牡蠣の何が苦手なのかよく考えてみた。
①大の苦手のカエルに見た目が似ていること
②生なのか火が通っているのかわからない中途半端な触感
③独特の生臭みを感じてしまう
だいたいこれくらいだろう。
年を重ねていくと、味覚も変わるというが、本当だった。
今回食べた牡蠣はとっても美味しくいただけた。
なぜ食べられたのか考えた結論は、単純だった。
「新鮮」だから。
つい先日、ある職員さんと子育てについて話していたことを思い出した。ことさら食事に関しては
「ちいさい頃にこそ、本物の味を覚えたほうがいい」と。
安物や模倣、あるいは加工してある食品群、そんなもので慣らされると本当の味が分らなくなる、そうだ。
よくよく考えてみると、幼少期に食べた牡蠣は、剥き牡蠣でパックかなにかにブヨブヨ泳ぐように入っていたものだった。お値段だって庶民価格に違いない。あの牡蠣のせいで、嫌いになったのかもしれない。
たかが、一品食べられなくたって生きていける。
でもその味をしっているだけで、きっといいことがある。
また食べたいなと思うこともできる。それが大人になってできるようになったのは嬉しいことだ。
苦手と思っていることも、意外と自分が頑なに拒むようにしているだけで、なにかと自分にとって都合が良いのかもしれない。
牡蠣でいうなら、記憶している苦手な味を覚えているから、それを思い出したり、繰り返し不快な思いをするのが怖いからなのかもしれない。
人が新たなことにチャレンジすることや、苦手意識を克服するのは用意ではないかもしれない。でもふとしたきっかけが必ずあると思う。
あ~嫌い嫌い~苦手苦手~避けよう避けよう~では
なんも進まんなあ、きっかけを逃さないようにしたいなあと、
牡蠣を食べられるようになって思うのでした。
川上