除夜の鐘問題

朝の情報番組で

除夜の鐘が騒音として苦情になっているとのニュースをみた。


この国の伝統行事なのだから、なくなると寂しい気がする。

あの鐘を聞かないと年を越した気にならない。

といった感想をいう人もあれば、

まあ時代がかわったからしょうがいないでしょう

と短絡的な返答をする声もあった。



昨年除夜の鐘をつきにいった身としては

やはり寂しい気はする。

私自身はものすごくお寺の近隣にすんでいるわけではないから、

騒音として感じることもない。

108の煩悩をふりはらう。

ああ一年が終わり、また新しい一年がはじまるのだと

知らせてくれるもの、くらいにしか思っていないかった。


騒音として感じる人にも

それができなくなって困る人

どちらにとっても深刻な問題なのだろう。



この問題に頭を抱えながらも、まっこうから向き合い

昼に除夜の鐘をつくことにしたお寺が紹介されていた。


こどもが深夜にでることもなかなかできない。

足下が暗くて、さらに寒い時期だから

年配のかたも足を運びにくい。


日中にすることで、老若男女

いろんな人が鐘を付きに来てくれるようになったとのだと。



機転をきかせ、時代にあわせた対応をすることで、

「なくしてしまう、やめてしまう」という最悪の状況を免れ、

困難を解決しつつ、以前よりもよい状況が生まれたひとつの良い例だと

感心してそのニュースをみていた。



こうした無理難題のような事柄に対して

どこを改善したり、調整すれば、うまくいくのか、

気づいたり、それを実行できる力があるのが

すこしうらやましく感じる。

そういった力は養えるものなのかと考えはじめた。

最近テンパってあわてふためくことが多い

川上でした。