齋藤さんからバトンを引き継ぎました。
山本です。
齋藤さんのブログ、とても彼らしく愛のある文章で、一言で言うなれば"エモかった"ですね。
個人的に応援している若人の一人です。
まだ21歳で真っ白なキャンバス、彼ならこれからどんな色・形にも自己実現ができると思います。
そんな彼の今後を楽しみに見守りたいと思います。
Vamos!!齋藤!!!
ちなみに新しい趣味を探しているようなので、もう少し暖かくなってきたらキャンプに連れていきたいと思います。(強制的に)
さて、今日は映画の話をしたいと思います。
昨年末から映画のシン・ウルトラマンがアマプラで配信されています。
私は昨年の5月、公開日に劇場で観ました。
シン・ゴジラにとてつもなく感銘を受けて、20回以上繰り返し観た私は、それはもう楽しみにしてイオン松江の3階に向かいました。
先に個人的な感想を言っておくと、映画としてよく纏まっていて面白かったのですが、シン・ゴジラで感じた目新しさがなく、大衆に迎合したような作風に少しガッカリしました。(※あくまで個人の感想です。)
確かにゴジラの時と同じエッセンスを感じたのに、何がこんなに違ったんだろう?
...と自分なりに考察してみたので、今日は皆さんに私の自己満足の世界にお付き合いいただきたいと思います。
考察① 「シン・ゴジラ」とは全くの別物であるということ
「シン」を冠するシリーズとして、まるで前作からの続編であるかのように期待して劇場に足を運ぶファンも多かったと思います。私も同じでした。
しかし両作は表面的な作風は一緒(エヴァ風テロップや、細かいカッティング等)ですが、根幹は全く別のものを目指していました。
「シン・ゴジラ」ではドキュメンタリーを彷彿とさせるリアリティのある描写で、従来は子供向けのコンテンツだった特撮を、大人も楽しめるエンタメに昇華させていました。
「シン・ウルトラマン」では意図的にリアリティを引き下げて、原作のウルトラマンに忠実且つ空想特撮の世界観を強く意識している印象でした。
次々と現れる怪獣と闘うカタルシスや、異星人であるウルトラマンが人類を守るために闘うヒロイックさ。
そこには老若男女が楽しめる、ウルトラマンの魅力がたっぷり詰まっていました。
考察② 原作→映画化の難しさ
漫画原作を実写映画化して、原作ファンがガッカリする現象よく目にしませんか?
あれって、仕方がないことだと思うんです。
何十話何百話とある原作の大ボリュームな内容を、2時間程度の1本の映画に纏めるのだから、ダイジェスト的な、散漫な印象を抱かれるのは言うまでもありません。
シン・ゴジラはゴジラ1体を倒すために2時間弱ずっと巨災対チームが奮闘し、サイドでゴジラ対応をめぐり日本政府や諸外国の思惑が交錯するストーリーです。
一方本作はたくさんの怪獣が出現し、それに打ち勝つカタルシスが前作に比べてやや希薄で、"タメ"がないように思えてしまったのかもしれません。
考察③ 純文学と大衆文学
本作は従来からのウルトラマンファンや、初めて"シン"シリーズを見る方にはとても楽しめる内容だったのではないかと思います。
所謂、大衆文学のような誰でも楽しめるエンタメでした。
"ゴジラ"の方はなんの説明もなく一方的にストーリーが進み、結局なぜゴジラが産み出されたのかも不明瞭なまま幕を閉じます。
そこには純文学的な"想像の余地"が残されていました。
偏屈者で頑固者な私は、後者のような自分で筋書きを書ける作品が大好物です。
結局、何が言いたかったのかというと、同じものを期待して観に行った私が間違っていた、ということです。
昔、ヱヴァンゲリオン新劇場版:Qを友人と観に行って
『よくわからなかった』
と首を捻って感想を伝えたところ、その友人から
『ジャンプ漫画的なものを期待したら駄目だよ、純文学なんだから』
と言われました。
そうか、視聴者が勝手に違うものを期待して、勝手に「話が違う」と怒ってたら世話ないよなあ。
と悟ったのを思い出しました。
みなさん、映画も食事と一緒で、あまり偏屈に批評せずに、出されたものには素直に「美味しいね」と言って召し上がりましょう。
つまらないことに怒らないのが、幸福度を上げる近道です。
次は私のような偏屈者のガンコちゃんをいつも優しく諭してくれる、渡部さんです。
お楽しみに。